伊藤スタジオ2013
「荒涼地論 建築史系スタジオ」
The river’s tent is broken; the last fingers of leaf
Clutch and sink into the wet bank. The wind
Crosses the brown land, unheard. The nymphs are departed.
( T.S. Eliot, The Waste Land,1922 )
河辺のテントは破れ、最後の木の葉の指先が
つかみかかり、土手の泥に沈んでいく。風が
枯葉色の地面を音もなく横切る。妖精たちはもういない。
( T.S.エリオット『荒地』岩波文庫、岩崎宗治訳、2010 )
趣旨
都市が初発の段階から抱え込んでいた「荒涼地」性がさまざまな場所でその姿を再び露わにしつつある。本スタジオでは荒涼地という都市の陰画を歴史的観点から捉え直し、1) 都市史リサーチ、2) GISによる地形表現、3) モノクロ写真、4) シングルラインの細密画、5) 彫塑的模型で表現し、その場所に造形的な介入を試みる。
- そもそも「荒涼地」とは何か?都市史を繙くと多くは荒蕪地や荒芝地を開拓して、居住地へと改変していった歴史が明瞭に読み取れる。災害や放置によってこうした場所が荒涼地に戻るのはごく普通のことであった。都市は歴史的に何度も荒廃・移動を繰り返した。近世~近代に入って、技術の圧倒的な発展によって、人為的な開発がいったんは「荒涼」という大地の潜在力をねじ伏せたかにみえた。しかし21世紀に入ると徐々に気候変動や環境変化が顕著になり、大規模な洪水や地震など荒ぶる自然が人間居住をしばしば脅かしはじめる。自然災害はもとより不可視の環境汚染や放射能、内乱やテロ、空き家化・過疎化が進む地方都市や限界集落の存在なども「荒涼地」化のさまざまなバリエーションのひとつとして捉えることができる。
- 日本は古来、比較的温暖な気候と肥沃な平野に恵まれてきたが、世界には厳しい環境のなかで荒涼地と対峙し、それを克服してきた事例は枚挙にいとまがない。オランダの海面干拓、アイルランドの岩床・断崖と集落形成、地中海特有のガリーグ地帯におけるワインづくりなどが直ちに想起される(cf.ジャン・ジオノ『木を植えた男』など)。
- この課題では、「荒涼地」の発見・定義からスタートし、その存在形態を都市との対比で捉え直す思考を展開させ、それとどのように対峙・共生するかという建築的介入の提案を試みることが第一の狙いである。さらにそれを美しいプレゼンテーション手法で表現することも第二の重要な目的である。スタジオの成果物は上記1)~5)を基本として、それぞれの表現の基礎を学ぶとともに、深くきめ細かな思考を反映したプレゼンテーション手法を伊藤研究室のバックアップのもとに目指したい。
指導担当
伊藤毅(教授)、初田香成(助教)、赤松加寿江(伊藤研)、山口晃(画家、ドローイング指導)
小島見和(T.A.)、辻泰岳(T.A.)、向山裕二(T.A.)
スケジュール
4月11日 初回ガイダンス
5月21日 歴史系合同中間講評会
5月28日 全体中間講評会
6月27日 歴史系合同講評会
7月02日 最終提出・ポスターセッション
7月09日 選抜講評会
共同スタディ : 中間講評配布冊子
最終講評会・スタジオ内講評会の様子
履修者作品と寸評
図版はブックレットの抜粋、寸評はスタジオ指導陣によるもの。
« The Pile Island »
- 寸評
- 東京湾の東京23区最後の埋立地と目される新海処分場に注目し、埋立直後の荒涼とした風景にインスパイアされながら、ここに本来の大地性を構築する夢のようなプロジェクトを打ち立てた。人間と大地の取り結んだ根源的な関係を埋め立て地の上に積層されてゆくグリッドという表象に重ね合わせた本作品は、スタジオ課題が問おうとしているテーマに真正面から応えようとしている。ドローイング、写真、模型などの表現にも迫力と訴求力があり、こざかしいプログラム論を超越したモニュメントの強度を感じさせる。
« Nostalgia »
- 寸評
- 荒地性とは未管理の自然によって征服された、人間の諸活動の痕跡に宿る「むなしさ」であると定義し、それを都市と自然が拮抗する周縁部に見出した。向ヶ丘遊園跡地を具体的な敷地として選択、その「遺構」を背景とした舞台装置、「荒地ヲ告発セシメル機械」は水没を自然による侵食のメタファーとして用い、観客に「むなしさ」を喚起させる。はたしてこの提案にこれほどの規模の「装置」が必要だったのか疑問は残るものの、一時的な上演によって荒地性という現象を浮かび上がらせるアイデアは高く評価できる。荒地との関わり方/介入ということについてより深い考察があれば、さらなる発展が望まれるだろう。
« 區區 »
- 寸評
- 都市内で思いがけなく遭遇する細切れの、不確かな境界装置によって区画された土地の集積を荒地ととらえた。敷地は新宿御苑と住宅地の境界のほとんど利用されない細長い土地の切片がフィルムの一コマのように連続/断絶しており、取り残されたような異空間を現出している。本作品は都市内の細切れの土地を精査し、その境界装置などを丁寧に分析したリサーチをもとにして、そこに一定のモデュールにもとづく飛び石を、荒地を継起的に体験する装置として置いていった。荒地への造形的介入がやや弱い印象を受けるが、プレゼンテーションのクオリティは高い。
« 霧の壁 »
- 寸評
- 再開発によって計画的に建てられた高層建築と、再開発から取り残された低層住宅の間に存在するギャップが都市における荒地である、という定義は、現代都市に遍在する問題を鋭く衝く。西新宿を敷地として、視線の優劣関係を反転させ、ギャップを顕在化させる装置である霧と物見櫓を提案した。ギャップを無理に埋めようとせず、鮮やかに強調してみせたのは、都市の問題に真摯に向き合う姿勢として評価できる。また、霧という「現象」をデザインする手法がエレガントである。社会資本のギャップ、都市内カーストなど、多くの人が半分無意識の内に目を背けている問題がこの提案には透けて見え、表現が洗練されているほどその訴えが際立つ。実際に霧が発生する模型を制作するなど、表現の努力は評価できるが、霧と物見櫓のイメージをさらに鮮やかに美しく見せられれば、鋭い問題提起がよりよく伝わっただろう。
« Wilful Blindness »
- 寸評
- 見て見ぬふりをされた土地を荒地と定義した。荒地の荒廃サイクルを考察し、「見て見ぬふり」は表/裏が存在するから発生する行為であること、表/裏を無効化するのは空(くう)であることを指摘した。目黒区駒場の暗渠上、周辺住民から見て見ぬふりをされている細長い土地を敷地とし、周辺環境と荒廃段階に応じて異なる三種類のプロポーションの温室を設計した。三種類はそれぞれ、荒地を暴露し、荒地を反転させ、荒地との共生を促す。提示された温室は綿密なリサーチと論理構築の上に導かれたと同時に、イマジネーションの跳躍を感じさせる美をもっている。石膏と鑞という二種類のキャスティング材料を使った模型もデザインの表現として非常に効果的だ。時間軸を考察の対象とし時間サイクルの中で温室の設計を考えた点、矩計図まで描ききり建築スケールの細部まで緻密に設計した点が特に評価できる。
« ○地点 »
- 寸評
- 埋立地・お台場という人間の制御下に置かれた特異な場に単なる空虚性を見いだすのではなく、そこが「こもる」という極度に私的な場に転換しうる可能性を見出した挑戦的な作品。フィールド調査によって洞察された人々の挙動や場の性格差が表現しきれていないのが残念なものの、巨大敷地に置かれたひとりのための極小空間は、内面世界という宇宙をもって埋立地をはるかに超える巨大スケールへと拡がる魅力的な世界観をつくり出している。提案された空間は凹むや瞑想するといった個人の身体行為に則した寸法で立ち上げられており、空間の具体性を追求しようとする姿勢は評価できるが、素材等への考察・表現に時間を割けなかったことが悔しまれる。「こもる」ことで研ぎ澄まされる五感とそれを触発する空間をより丁寧に表すことができれば、本人が意図した荒れ地の役割はより明確になったのではなかろうか。
« 都市の床下 »
- 寸評
- 近代のインフラストラクチャーによって創り出された荒れ地に対し、掘削という原初的な介入を通じて、記憶や五感といったそれ以前の要素を取り戻そうとした作品。対象地に正面から向かい合った労作であり、とくに断面のドローイングは主旨にふさわしく、ごつごつとした魅力にあふれている。水道道路という場所選定も、フィールドワークに基づくリサーチも、ドローイングも的確になされ、総合的な完成度の高い作品である。五感という根源的な要素の追求に向かったためもあるが、リサーチで発見された興味深い場所の要素(建坪率対策の空地や覆われてしまった水路、土地所有者の問題など)が、設計にもう少し生かされてもよかったかもしれない。粘土で作った模型が魅力を十分示せていなかったのも惜しまれる。
« Metamorphosis »
- 寸評
- 荒涼地を時間の問題として捉え、都市が自然に戻っていく過程を、段階を追って丁寧に考察することで、都市の行き着く先と人間との共存のあり方を考えさせてくれた作品。スタジオの主旨に向き合った粘り強い思考の成果であり、一つのあるべき解答を示している。とくにコケやシダ、灌木、ツルなど様々な植物の種類を使い分けたことで、考察の説得力が増している。「path network as a way of decision」とあるが、道ごとの多様な決定のあり方をもう何種類かを実際的に示せたら、より深みのある考察となったのではないか。
« 執着の家 »
- 寸評
- 東京都中央区湊にある印刷業の町を対象とした内海の案は一見、自分だけの象徴的(シンボリック)な空間を一方向的に主張しているかのようにも見える。だが彼女は「完結しない造形」を介入させ、それと入居する人々との相互的な関係性を立体化することによって、偶然に満ち溢れた都市のありかた、いわば都市の偶有性を示すことに成功している。またこうした関係性を「執着」と名づけるためのデザイン・サーヴェイも見事である。ただし完結と完成は異なる。つまりいつまでも加筆可能なドローイングに留まることだけが、都市の偶有性を保障するための手段ではない。次なる介入が期待される。
« 東京線形離散荒地 »
- 寸評
- 潜在的に空地になることが計画されていた道路拡張用地、それは東京の中で離散的に存在し続ける、という岩井の指摘は申し分ない。振り返れば「線形」は槙文彦、大野秀敏らによる『見えがくれする都市』(1980)、「離散」は原広司による『DISCRETE CITY』(2004)など、岩井は先人の課題を真摯に受け継いでいる。敷地を新大久保に絞り、グリーンバンクや接道見本園といったプログラム、また工事用の資材などの空間を分節するエレメントを拾い上げ丁寧に描写した。ただし建築家としての真摯さが、かえって造形的な介入にブレーキをかけてもいる。自らが設定した文脈を一度脇に置き、神楽坂や目白台とのネットワークを再考しつつ、かたちのスタディをひきつづき重ねていく必要があるといえよう。
2013年06月03日
last modified: 2014年07月26日