2014studio_picture_light

伊藤スタジオ2014

はるばると海を越えて、この島に着いたときの私の憂愁を思い給え。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠っていた。私は眼をしばたたいて、島の全貌をみすかそうと努めたものである。裸の大きい岩が急な勾配を作っていくつもいくつも積みかさなり、ところどころに洞窟のくろい口のあいているのがおぼろげに見えた。これは山であろうか。一本の青草もない。……

― 太宰治『猿ケ島』1935 ―

趣旨

六千八百五十二の島からなるわが日本列島はまさに島国である。そこには固有の歴史が展開し、多様な文化が熟成し、独特の社会が形成された。島とは陸塊における大陸に対する概念であり、海洋法に関する国際連合条約によると、1)自然に形成された陸地であること、2)水に囲まれていること、3)高潮時に水没しないこと、が島の定義として挙げられている。さて、世界に無数に分布する島々は、ある場合には大小織り交ぜて群島をなし(e.g.アンティル諸島)、離れ小島として弧絶するもの(e.g.アラン島、スケルグ・マイケル島)、島自体が海のノードとして小宇宙を構成するもの(e.g.地中海におけるシチリア島)、さまざまな種類がある。これら全体を俯瞰すれば、なによりも島の多様な造形こそがわれわれの想像力を喚起する。

本スタジオでは「島」というふだんあまり意識にのぼらなかった「小領域」に全思考を一時期集中させ、島のもつ「全体性」「分節性」「関係性」に目配りしながら、島から得られるさまざまなアイデアを手書きの細密線画、モノクロ写真、彫塑模型に定着させながら思考を繰り返し、最終的に特定の島にひとつの「建築」(アーキテクチャー=仕組みのデザイン)をつくる。その建築は島に突き刺さるようなモニュメントであってもいいし、島の片隅にそっと置かれた仮設物でもよい。島のもつ多様な意味を全身体で感受しながら、その思考を何段階か深化させ、最終的にひとつの造形に変換する試みである。

指導担当

伊藤毅、山口晃画伯(絵画指導)、初田香成(助教)、赤松加寿江(伊藤研)、畑中昌子(伊藤研)、
髙橋元貴(伊藤研)、中尾俊介(TA)、他ゲスト

スケジュール

4月15日 初回ガイダンス
5月中旬 調査合宿
5月27日 中間講評会
7月01日 最終提出・ポスターセッション
7月15日 選抜講評会

中間成果:中間講評会配布冊子

1. リサーチ1-1 今福龍太『群島-世界論』を読む

2. リサーチ1-2 世界にはどのような島があるのか

3. 提案

スタジオ共同パネル

共同スタディ成果

伊藤スタジオパネル(地形および海底地形等高線図)

履修者作品と寸評

« ここには何もかもがあるし、何もかもがない »

寸評
神津島港の南に向かい合う断崖の海岸沿いに「テトラポッド」を利用して人びとが集う(佇む)場を設計した。私たちが消波ブロックとしてよく思い浮かべる四本足の「テトラポッド」は1949年にフランスで発明され、その後どこにでもみられる海岸風景の一部となった。消波ブロックは護岸を目的として設置され、陸に打ち寄せる波のエネルギーを衰退・消散させる。海と陸との緩衝帯を構成する「テトラポッド」を海にも陸にも属さない(属せない)存在として見つめ直し、波打ち際という変化する「さかいめ」に島における人びとの新たな日常を生み出そうとした。
図と地を反転させたように立ち現れ、時間とともに水のなかに消えていく空隙や場の設計からは、何か強く惹かれるものを感じる。また、人びとを迎え入れる表玄関としての神津港、レジャーの場(海水浴場・釣り場)としての前浜に対して、付かず離れずの関係におかれた敷地の選び方も合点がいく。リサーチやエスキース時における繊細な感性と工学・技術的な眼差しとが、パネル表現にうまく統合できていなかった点が悔やまれる。

« うみくらの中で »

寸評
限られた自然資源の中で生きぬくための長子相続制度と、その空間的解決であった南郷地区の在り方に着想を得ている。御蔵島の現状に対する鋭い観察と分析にもとづいて、島の共同体の持続可能性について深く考えられた作品である。
かつて、長子が住む里とそこから排除された者たちの集落である南郷の住み分けは、島の共同体が生き続けるために不可欠であった。現在の御蔵島が自律的なバランスを欠き、観光に依存している状態に問題を据え、新たな地域産業のしくみを島の空間構造に落とし込むことで問題解決を図っている。提案されたプログラムは、島固有のヘンゴの焼酎作りとクラの普請という新たなサイクルの導入である。ものづくりを通じた相互扶助の関係性をつくりだそうとする意図は明快で、集落と建築どちらにおいても既存空間を維持する方法をとり、きめこまやかなプログラムは高い実効性と完成度をもっている。あえて図面表現をしない描画スタイルで自分自身の表現をつくりあげている点も評価できるが、生産機能をもつ空間へと転換されたクラについては、スケッチにとどまらない建築表現を展開する余地も残っていたように思う。島が本質的にかかえる問題である資源的限界や共同体の自律調整の在り方について正面から向きあい、ひとつのこたえを導きだした点できわめて真摯な島嶼論となっている。

« シマヒキ »

寸評
本作は、伊豆諸島の海域に2つのメガフロートを提案する。市場、給油場の機能をそれぞれもった浮島は、漁期外である夏季の観光シーズンには場所を移して結合し、祝祭の場となる。広い海域に漁業を中心とした確固たる空間のまとまりを発見し、それを再編することによって、島と島、島と本土を海の側からむすびつける試みである。伊豆諸島を見渡す視野のもとで、本土と島の関係に幅をもたせようとする継続的なスタディの末に至ったこの提案は、「島嶼論」という本課題に真っ向から臨んだ成果といえよう。
近海の漁業についてのリサーチから、船の規模と港の停泊機能、漁期、船便の所要時間など、海上の空間・時間のスケールを取り入れた点に本作の独特な魅力がある。複合的なプログラムを支える浮島の、港のような、船のような、足場のような、山車のような造形も個性的だ。そして作品名にもなっている浮島を動かすという操作は、海上の時間軸に基づき諸島を一体化するプログラムの重要なポイントであるとともに、浮島のもつ形態的な迫力を引き立てる躍動的な工夫となっている。利用の頻度や物量など、機能の具体的内容はやや曖昧であり、複雑な提案の全体像を伝えきるための更なる工夫も必要であった。それでも独自のリサーチからプログラム・形態ともに力強い提案に結びつけた力量は見事である。

« 禊-罷通 »

寸評
島嶼における神や恵みについて根源的に追究するなかで海の存在に思い至り、そのテリトリーに延長300mの参道=桟橋というインフラを介入させることで、島嶼性の回復を試みようとした作品。大陸と異なり肥沃な大地が存在しない三宅島では、神は大地ではなく地下(火山)に宿り、恵みはその土地自体というより流人などを介した交易によってもたらされてきた。海は交易を媒介するとともに、時に人間にとって脅威となる両義的な存在であり、海と神社、そして火山が参道によって結ばれるとき、人々は神聖さを体感し、本来の島嶼性を想起する。
中間発表の時から島嶼性とは何かについて考察し、何らかの介入を通じてその回復を目指してきた設計者の姿勢は常に一貫しており、スタジオの趣旨に真摯に向き合った作品であった。A1横二面に渡ってモノクロで描かれたパースも静かな迫力に満ちている。
ただ島嶼の根源的な性格の追究に向かった分、最終的な設計に当たってはそこから踏み出しづらくなってしまった感もあった。中間発表では現地調査を踏まえ、ディテールにまで考察が及んでいただけに、三宅島についてそうした分析の展開がなかったことが惜しまれる。また、設定されたメガスケールの軸線についての説明が少なかったが、もう少し何らかの意味を込める余地があったようにも思われる。

« 白砂のしろ »

寸評
島嶼が有するもっとも本質的な問題-過疎化・周縁化する辺境という負の側面を反転させることに果敢に挑んだ意欲作といえる。本土という文脈から脱落した人々が島という小さな親密圏にあらたな住み処を見つけ定着し、再生していく姿を描く。再生のための手がかりは住み処の自力建設がその取っかかりとなるが、その準備にも周到な配慮が施され、自立建設の場所、住居の素材、既存の島のコミュニティとの段階的なかかわりなどがあらかじめプログラムに組み込まれている。
このプログラムそのものは一見するとかなり過激な提案であり、実現性をいぶかるのが通常の反応であろう。プレゼンテーションとしては一度提案書というかたちで文章化できるかどうか、みずから検証した方がよかったかもしれない。そのうえで実現可能な部分と困難な部分を冷静に分別しておくことが必要であった。しかしこのようなプログラムを提案する背景として設計者の島という自然的・社会的環境に対して、大きな信頼と共感をあったことを見逃すことはできない。島嶼論として深度のある案として評価できる。

« 水の上のレストラン »

寸評
島のなかでも、土砂災害によって周辺の交通網から切り離され、再建の目処なく見放された半島部に着目。島の厳しさがよりあらわになる場所で、それでも地下に広がる黒曜石の地層から、神津島がもつ清浄な水資源の豊かさを対比的に描き出そうとしている。-岸壁の上に建つレストランへは海上から船で近づき、かつて蚕の荷下ろしが行われていた船着き場から、渓流を眺めながらケーブルで登る。湧き水を利用した料理に舌鼓を打った後は、外のテラスで静かに、海向こうの大陸を見つめ直す-…計画を夢物語で終わらせず、地に足の着いたものとするには十分な構成。惜しむらくはその設計を前面に押し出し、表現していないこと。構想は早々に模型や図面に起こし、かたちにしながら掘り下げてほしい。そうすることでまた、魅せるべき空間と表現が自ずとみえてくるはずである。